多治見ききょう法律事務所

弁護士 木下 貴子 ブログ

職員が退職した場合に教育訓練・研修費用・資格取得費用の返還を請求できるか?

職員が退職した場合に教育訓練・研修費用・資格取得費用の返還を請求できるか?

いつも,読んでくださり,ありがとうございます!

今回は,入社後の教育訓練・研修費用・資格取得費用の問題について考えます。
会社の経営者(事業主,企業,使用者)は,事業を拡大,円滑にし,より質が高く,多くのサービスを提供していくために,労働者を雇用することになります。
そのために,職員研修を実施したり,資格取得費用,留学費用などを負担したりして,労働者を「育てる」活動をする企業が多いです。

しかし,よく企業の方からご相談を受けることですが…

せっかく育てた職員が研修を終了して業務につけるようになった頃,会社を辞めて別の同業種の企業に移ってしまった,資格を取得できたと同時に辞めてしまった,何のためにお金をかけたのか分からない…と言われることがあります。

このような場合,何らその能力や資格を会社の役に立ててもらえないのだから,研修費用や資格取得費用を本人に返還してもらいたい,と言われることもあります。

実は,研修費用や資格取得費用を労働者に請求する場合には,違法行為とならないよう注意が必要です。

職員の退職時に研修費用,教育訓練費用を請求する時には,何に注意すべきなのでしょうか?

1 研修費用,資格取得費用返還請求の問題点

企業が,従業員に対して,能力開発や人材育成を目的として,各種研修や資格取得を奨励してその費用を全額会社の負担で実施している場合があります。
このような場合,社内規程の中に,例えば「資格取得後,一定期間内に退職したときは,費用の全額を会社に返還しなければならない。」というような規定を設けていることも多いです。

ここで,資格取得後比較的早期に退職を希望している従業員と会社との間でトラブルとなることがあり,このような相談を受けることがあります。

社内規定,就業規則,労働契約書などに書いてあれば,当然請求できるように思われますが,何が問題なのでしょうか?

条文を見てみましょう。

「労働基準法16条 使用者は,労働契約の不履行について,違約金を定め,又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」

この規定は,予め違約金や損害賠償額を定めておくことにより,労働者を身分的に拘束し退職の自由を奪ってしまう弊害を排除する趣旨の規定のため,奴隷的拘束及び苦役からの自由の原則(憲法18条),強制労働禁止原則(労基法5条)の実質化,労働者の退職の自由意思を確保するために設けられたものとされています。

そうすると,各種研修費用や資格取得費用を全額会社に返還させる規定は,違約金や損害賠償額を予定する規定として労基法第16条に違反するのではないのか?が問題となります。

2 留学費用・訓練経費の負担における裁判例

①長谷工コーポレーション事件(東京地裁平成9年5月26日判決)

社員留学制度で米国大学院に2年間留学し,帰国後2年3か月で退職した従業員に対し,会社が留学費用返還を請求した事案で,「本件留学制度は原告の人材育成施策の一つではあるが,その目的は・・・大所高所から人材を育成しようというものであって,留学生への応募は社員の自由意思によるもので業務命令に基づくものではなく,留学先大学院や学部の選択も本人の自由意思に任せられており,留学経験や留学先大学院での学位取得は,留学社員の担当業務に直接役立つというわけではない一方,被告ら留学社員にとっては原告で勤務を継続するか否かにかかわらず,有益な経験,資格となる。・・・本件留学制度による留学を業務と見ることはできず,その留学費用を原告が負担するか被告が負担するかについては,労働契約とは別に,当事者間の契約によって定めることができるものというべきである。」として,労使間には留学費用について特約付金銭消費貸借契約が成立していたとして,請求を認め,また,右契約は労基法16条が禁止する違約金の定め,損害賠償額の予定には該当しないと判断しました。

②サロンド・リリー事件(浦和地裁昭和61年5月30日判決)

新入社員が会社からの美容指導を受けたにもかかわらず,会社の正当な意向を無視して勝手に退社する場合には,入社月にさかのぼって美容指導に関する訓練諸経費として1ヵ月につき4万円の講習手数料を支払う契約が締結されていた場合において,本件美容講習が一般の新入社員講習とさしたる違いはなく,使用者として当然負担すべきものであるから,右契約は,講習手数料の支払義務を従業員に課することにより,その自由意思を拘束して退職の自由を奪う性格を有することが明らかであるとして,無効と判断されています。

3 研修費用・資格取得負担が有効になる基準

研修や資格取得費用といっても性質は様々ですが,会社が費用を支出する場合には,会社との業務関連性があることは否定できないと思います。

しかし,①②の裁判例やその他の事例を総合すると,研修や資格取得が,業務を遂行する上で必要な技術や知識を習得するためのものであり,明確な「業務性」が認められる場合に,違約金等の規程を置くことは,労働者を不当に拘束して労働契約関係を継続させ,退職の自由を奪うものと考えられることから,労基法16条に違反し無効になるものと考えられます。

一方,研修や資格取得が本人の自由意思によるものであり,専ら個人の資質や能力を溜めるものであり明確な「業務性」が認められない場合には,労働契約関係とは別に費用負担について労使間で自由に取り決めることができるのが原則です。この場合,①のように,本来本人が負担すべき自主的な修学・研修について使用者が条件付で費用を貸与したとの実質を有する限り,労基法16条に違反しないことになります。

イメージで言いますと,自社を退職しても,広く他業種でも役に立つような資格,技術となるのであれば,辞める場合には,費用負担を請求することができる規程も適法となりやすい一方,もっぱら自社の業務の上でしか役に立たないものであれば,違法,無効となりやすいことになります。
「資格」の場合には,自社の業務を遂行する上で必須ではないことも多いと思いますが,「技術」「知識」の場合,比較的他業種でも,広く役に立つような「技術」「知識」であったとしても,自社の業務をする上では必須のスキル,知識なのであれば「業務性」が強いので,違法,無効となりやすいでしょう。
「研修」で言うと,自社による研修ではなく,外部の研修機関に費用を支払い,研修内容もおよそ研修機関にお任せして行うような研修で,参加も自由なのであれば,業務性が弱く,早期退職時には返還するとの合意も有効になりやすいでしょう。
「研修」の場合には,マナー研修のように業務開始の基本として必要になるような一般的,汎用性のあるものよりも,個人特有のスキルアップにつながる付加的な研修の方が,業務性が弱く,返還合意も有効になりやすい傾向と言えます。

4 まとめ

これまでお話した通り,研修費用,資格取得費用の返還の合意が有効になるかどうかは,様々な事情から労働者の「退職の自由」「職業選択の自由」を奪ってしまうと言えるかどうか,にあります。
退職の自由を奪ってしまう,と言われるような規定であれば,たとえ定めていたとしても,違法,無効となり,返還は認められません。

そのために,形式的なことにはなりますが,労働契約とセットにはしないで,別途,研修費用,資格取得費用については,その費用を貸し出すこと,但し,一定期間勤続すれば返還義務はないという条件付で貸し付けることを明確にするなどして(条件付金銭消費貸借契約)トラブルを未然に防止する必要がありますね。
もっとも,免除するまでの勤続期間が長い場合には,やはり一定期間を越えると,不当な拘束として無効とされやすいので注意が必要です。

せっかく研修をして育てた職員が研修終了と同時に会社を辞めて,ライバル企業に入社して,腹立たしい,なんとかならないか,と言われることも少なくありません。
自社の業務に必須の研修であったとしても,そのスキルを身に着けた社員を何の研修費用も負担していないライバル企業が利用するのも許せない…と思うのも無理からぬところだと思います。
しかし,何の定めもしておかなければ,研修費用の返還や退職後の退職後の競業避止義務を主張すること(ライバル企業に就職しない)はできません。

どのような規定方法で,どのような範囲であれば有効になるのか…?
は結局,事業主側と労働者側の立場の公平感,バランスによるので,とても難しいと思うのですが,定めを置かなければ何も始まらないので,職業訓練・研修費用の負担について定めておきたい企業,疑問や問題を抱えている企業は,弁護士に相談いただけると良いと思います。

労働者の権利を保護するために,労働関連法は,使用者(事業主,企業)にとっては厳しい原則を定めています。
そのため,知らずに,研修費用,資格取得費用についても返還を定めてさえおけば安心,と安易に判断することは危険です。
どこまで準備しても,その定めが無効になりうる可能性も踏まえて,対応を考えるのも重要です。

どんどんインターネットなどで情報も検索できる世の中。労働者の方も含め,誰でも簡単に学んで知識を得られます。
退職時に研修費用・資格取得費用を払わないといけないという書類に署名したから,免除期間までは働き続けよう,という人ばかりではありません。
署名したとしても,退職できるのではないか…?と調べて,「この合意は無効なのではないですか?」と言われることもあるでしょう。

使用者の方も,これを前提に知識を備えて,雇用時には注意をすることが重要です。
法律上,何が許されていて,何は許されないのか,トラブルを回避するために法的にとりうる手段は何なのか,を知っておくことが重要です。
そうすることで,万一の時に,少しでも「こんなはずじゃなかった」というダメージの発生,トラブル発生のリスクを減らして,気持ちよく業務をしていただけたらと思います。

それでは,今回も最後まで読んでいただいてありがとうございました!